氷室作太夫家住居と津島御師STORY

氷室作太夫家住居の保存活用を進める会集合写真

氷室作太夫家住居は、嘉永2(1849)年竣工の木造 2 階建の建物を主屋とし、安政 5(1858)年に建てられたと考えられる長屋、塀、塀重門、さらに、その後の建設とみられる薬医門、さらに主屋の東西にある庭によって構成されています。この建物は、津島神社の社家(神職家)であり、御師を務めた氷室作太夫家の建物として建てられたものです。

氷室作太夫家は、江戸時代に津島神社の社家を務めた家の一つで、当主は代々、氷室作太夫を名乗り、1940 年に没した9 代目氷室作太夫(氷室鍵太郎〔教文〕、文久元( 1861)年~昭和 15(1940)年)が明治維新後、結社係(講社の世話役、御師的な役割果たす)を務めていました。彼は氷室作太夫として御師と同様の役割を果たした最後の当主でした。なお、氷室作太夫家住居の文化財指定に当たり、津島市教育委員会が作成した文書「氷室作太夫家住居の特性」では、「神職は9 代目で終った」という記載がありましたが、彼は神仏分離令が発布された時は幼少期であり、江戸時代末まで続いていた津島神社の神官=御師ではなかったと考えられます。

氷室作大夫家住居は、津島神社への参詣客を饗応する建物です。津島市教育委員会が保管している氷室作大夫家文書に含まれる絵図には、主屋と長屋の間に神楽を演じた建物が描かれているので、ここでは、参詣客に寝食を供しただけでなく、神楽などの娯楽も提供していたことがうかがえます。

明治時代になり、社家制度がなくなると転職する社家も多く、また、同時に御師制度もなくなったため、津島神社への参詣人を饗応する建物も不要となりました。その結果、御師を務めた方々の建物は改造され、あるいは、建て替えられものが多数ありました。この氷室作太夫家住居は、氷室家の住宅として使われた後、貸家として他者に貸し出されていましたが、この間、主屋東側の増築や長屋の改造はあったものの、建物の主要部分は 竣工時の姿を大きく変更する改造などはおこなわれず、氷室家が所有し、建物を維持してきました。そして、1988年6月、9代目氷室作太夫の息子に当たる氷室捷爾氏が建物5棟(528.54㎡)と土地(1,140.49㎡)を津島市に寄付する旨を津島市に伝え、1989年3月津島市に建物と土地 が寄付されました。これを受けて津島市は、1990年3月、主屋、長屋、門、塀と中庭(主屋西側の庭)を有形文化財に指定しました。この時、すでに中庭にかつてあった神楽を演じた建物は撤去されていましたが、残った建物だけでも当時の御師の家の様子を知ることができる貴重な文化財建造物です。